戦中戦後の混乱期を経て、米国に留学してインディアンの旧石器文化を研究するため、サンフランシスコへ向かう途中、たまたま下船したハワイ。そこで、当時まだ草創期だったポリネシア考古学に魅せられ、生涯を捧げることになり、早や50年。篠遠喜彦(しのとう・よしひこ)博士の一貫した研究テーマは「ハワイアンのルーツを探る」ことにある。西ポリネシアを除いて土器がない地域で、発掘した「釣り針」の型式に着目して年代を追う研究は、ポリネシア考古学の基礎を構築する画期的な業績として世界的に高い評価を得ている。ナイト(騎士)の称号を持ち、ハワイ州花でもあるハイビスカスの新種や歌にもその名が付く篠遠博士の波乱と冒険に満ちた半生や研究は、まるで映画や小説以上にスリル満点で興味深い。
篠遠喜彦(しのとう・よしひこ)
1924年9月3日、東京都生まれ。自由学園(東京・東久留米市)を卒業後、49年から54年まで日本考古学研究所(千葉・市川市)に勤務。ハワイ大学で人類学、考古学を学んだ後、約50年間、ポリネシア研究に関する中心的施設である ビショップ博物館を拠点として調査研究に携わる考古学の第一人者。70年から89年まで、同博物館人類学部長の要職を務め、現在も同博物館ケネス・パイク・エモリー人類学上席特別研究員として第一線で研究活動。後進の育成やポリネシアの遺跡保存にも力を注ぐ。62年、北海道大学理学博士。95年勲5等旭日双光章、96年吉川英治文化賞受賞。2000年には仏領ポリネシア政府よりナイトの爵位を授与される。共著「楽園考古学」、「秘境マルケサス諸島」(以上、平凡社)のほか、日英の著書・論文など多数。
ウエブサイト: http://www.bishopmuseum.org
■運命的なハワイでの半生
マタタビ:考古学に魅せられたきっかけは?

篠遠:
小、中、高校と、ひばりヶ丘の自由学園に通ったんですが、敷地内に「南沢遺跡」があり、校舎の新改築工事などで掘るたびに縄文中期の土器とか、住居址とかが見つかったんですね。当時、発掘調査に来られていた鳥居博士という有名な考古学者の先生に触れたことも子供心に興味を持つきっかけでした。小さい時に読んだスウェーデンの有名な探検家スウェン・ヘディンの本で、白いヘルメットを被った学者の姿に憧れたことも懐かしい思い出です。
マタタビ:1950年前後に日本考古学研究所で働かれたそうですね。
篠遠:
父が東大の遺伝学者(故、篠遠喜人名誉教授)だったこともあり、私も本当は大学に入って考古学をやりたかったのですが、戦争で閉鎖され断念。その後は、兵隊として死ぬ覚悟でしたが、一度見てみたかった中国にやっとの思いで手に入れた切符を片手に渡り、北京郊外にあった華北農事試験場というところで陸軍の食料補助的な自給自足を研究したり、中国の遺跡で土壌調査などもやりました。そうこうしているうちに戦争が終わり、日本へ帰国するにも食べるものがなく、韓国・釜山までやっとたどり着き、1週間以上も水だけで日本の土を踏みました。そして得た考古学の職でした。
マタタビ:その後、アメリカ本土へ渡る予定だったそうですが?
篠遠:
当時、考古学界では日本にも旧石器文化があったのではないか、ということが大きな議論でした。興味を持った私は米国に留学して、インディアンの旧石器文化の勉強をして日本に戻るはずだったのです。留学手続きも無事に終わって、1954年6月にバークレーのカリフォルニア大学に入学するため、横浜港からプレジデント・ウィルソン号でサンフランシスコに向け出航。途中、ホノルルへ寄港する前、知人でいろいろ援助してくれたスラック・モートンから「ビショップ博物館のケネス・エモリー博士がハワイ島のサウスポイントで発掘をしているから、下船して見学するように」との電報が入り、忘れもしない7月4日にホノルル港で下船したのでした。
マタタビ:一時立ち寄るはずがハワイに50余年もとどまり、ポリネシア考古学を専攻するようになったのは?
篠遠:
実は2〜3週間だけ手伝い、次の船でカリフォルニア大学に行くつもりでした。留学目的だったし、もう荷物だけ先に行ってしまっていたし・・・ でも、当時始まったばかりのポリネシアの考古学に興味が湧いたことや、掘り方とかでも私の好きなようにさせてくれたエモリー博士の人柄や強い勧めでハワイに生涯を捧げることになったのですよ。
マタタビ:1954年から55年にかけて、ハワイ島サウスポイントにある3つの遺跡から出土した3500本の釣り針をタイプ別に型式分類し、その年代を確立する研究は代表的な業績ですね。
篠遠:
サウスポイントの遺跡では、掘っても掘っても土器が出てこなかったんですよ。でも、不思議なことに、いろんな形をした釣り針が続々に見つかったんです。それまで熱帯性気候では歴史的遺物など残らない。従って、ポリネシアには考古学という学問が成り立たないと思われていた時代でした。
■「ハワイアンの起源とポリネシアにおける民族移動」の解明
マタタビ:一貫した研究テーマは「ハワイアンのルーツを探る」ことだそうですが?
篠遠:
文字記録のない文化において、その歴史を再構成し、比較研究を行うための物差しとなるのが考古学的遺物や資料による編年の確立です。普通は土器の型式分類を使うのが一般的ですが、西ポリネシアを除いて土器というものがなかったポリネシアで、出てきた釣り針の型式などに着目した訳です。1964から65年にフランス領ポリネシアのマルケサス諸島のウアフカ島遺跡の調査で、釣り針の型式が似ていることから、ハワイ諸島先住民の祖先はマルケサスから移住したとの学説を提唱しました(編集部注:現在の定説です)。マルケサスから南西に約1500km離れたタヒチとハワイには釣り針はもちろん、言葉とか、類似点が多いのですよ。
マタタビ:ハワイやタヒチ、マルケサス諸島など、ポリネシアの島々で発掘調査された釣り針には多くの共通点があった・・・
篠遠:
ハワイ島で古い釣り針を発掘したのをきっかけに研究し、時代を特定。丹念に解析した釣り針による編年作業により、当時の人々の生活様式が明らかになり、民族移動の歴史も少しずつその全容を現してきました。西のインドネシア圏、ニューギニア島沖にあるビスマルク諸島などからやってきた、古く東南アジアや華南、南洋で繁栄したオーストロネシア人が東へ移動を始め、100年足らずの間にフィジーやトンガへ移動、遅れてサモアへやって来た。それから1000年ほどを経て、紀元500年頃にサモアからマルケサス諸島への移動が始まり、マルケサスを起点にタヒチ、遠く南西はニュージーランド、南東はイースター島、北はハワイ諸島へと人々は散らばっていった。島へ定着しだしたのは紀元18世紀末ごろだと考えています。
■古代ポリネシア人は太平洋を航海していた
マタタビ:1972年にフランス領フアヒネ島にあるバリ・ハイ・ホテルの建設現場から発掘された古代ポリネシアの集落と77年に見つかった航海用と思われるカヌーの一部はポリネシア考古学的に最も重要な遺跡の1つだそうですね?
篠遠:
盛土のために砂を掘っていた作業員が、12〜3本のクジラの骨を掘り出したのです。その中の1つが、それまで南西に4000km離れたニュージーランドにだけあるとされていた「パツ」=写真左下=と呼ばれる武器に非常に類似していることに気付いたのです。この発見が初めてニュージーランドの先住民、マオリ族とハワイの接点になりました。
マタタビ:77年に釣り針に続いて、カヌーの一部と思われる、とても重要な発見をされ、篠遠さんの学説を世界中が注目するきっかけになった?
篠遠:
タヒチ本島を含むソシエテ諸島の中心に位置するフアヒネ島の水没遺跡調査で、古代木製カヌー(カタマラン型双胴船)の構成部品が見つかったんですよ。この部品から想像して復元すると、帆柱 20m、厚い側板、舵取り用の櫂(かい)が浮かび上がり、航海用のカヌーと思われました。これが古代ポリネシアの人々が太平洋を航海していたという推論を裏付ける貴重な出土品となりました。
マタタビ:同質的な文化をもち、広大な海域に分布するポリネシア人は「謎の航海民族」とされ、どこからやってきたかについても諸説ありましたが、この問題にも「遺物」という物証で決着がついたように思えますね。
■鳥に導かれたポリネシアの人々
マタタビ:当時の人たちはなぜ、果たして陸地があるかどうかも分からない、全く未知の大海原を渡ろうとしたのでしょうか?

篠遠:
おそらく、その理由の1つは渡り鳥だと考えています。私がマルケサスにいた時も、10月頃になると村中がザワザワしてきて、初めの1週間は10羽ほどだったのが、一気に何千羽という渡り鳥が島にやって来た。また5月には南の方から違う種類の鳥がやってくる。こういうことを島民たちは日常的に見ている訳です。
マタタビ:さまざまな種類の鳥が来るということは、海の向こうに島があるのではないか? ということですね。
篠遠:
でも、すごいことですね。コンパスもなく、太陽や星や月、海流と風向き、渡り鳥など自然に対する知識だけを頼りに航海に出たのですから。当時の人たちは200に及ぶ星の名前を知っており、その位置を旅先案内としてカヌーを漕いだらしい。自然との完璧な調和の中で暮らす海洋民族は鳥の習性を把握し、カヌーとまだ見ぬ陸地との距離感を計った。並大抵の知恵や勇気、冒険心じゃできないと今もつくづく感心するんです。
マタタビ:エサをとるために10マイル(約16キロ)も飛んでくる鳥がいるそうですが?
篠遠:
この鳥を見つけたら島が近い証拠。海に漂流する木やココナッツの実を見て、陸地があると確信したんでしょうね。
マタタビ:島があると雲が水平線に浮かび上がり、島にある緑が反射して雲の下はグリーンの帯ができるって聞きましたが?
篠遠:
もちろん生きて戻った場合だけでなく、戻れなかったり、亡くなったケースもたくさんあったと思いますよ。でもね、航海を重ねるにつれて、そういう海に対するいろんな知識が増えたのでしょう。安全面や家族、荷物も増えるにつれて、船の形は改良され、大きさも変わった。ココナッツの葉を1週間ほど水に浸けてしごくと繊維が残り、これがしっかりしたヒモになります。最初は丸木舟を作ったんですね。
マタタビ:タヒチから一番大きな移住があったのがハワイなのですか?
篠遠:
理由はいろいろ考えられますが、15世紀以降は人が増えすぎたためでしょう。ポリネシアでは「タブー」が非常に発達していたんです。例えば、カメハメハ大王が地面を歩くと、踏んだ所は全部彼のもの。だから、肩車されたんですよ。酋長など権力者の影を踏むと力が抜けてしまうと考えられていたので、タブーを侵すと殺されたんですね。でも、きりがないから、タブーを破った人間には水と食料とカヌーを与え、島から追い出したこともあったようです。
■後進の育成と遺跡の保存
マタタビ:各地で遺跡の調査だけでなく、修復や保存を行い、地域住民の意識を高め、後進の育成もされているそうですね。
篠遠:
島で考古学をやっているのはだいたい外国人。貧しい国で遺跡を守ることの優先順位は低いんですね。タヒチでは「「地元の者はみんなタヒチに文化なんかない」と言っていたんですが、「君らはタヒチ語を話すじゃないか、それが文化なんだよ」と、教えることから始めたんです。たまに、顔を出すのは、現地の人らはすぐに遺跡の保存や掃除を忘れちゃうんですよ。私が行けば「シノトウが来た。遺跡をきれいにしよう」と思うでしょうから。
マタタビ:発掘では、主に現地の人を雇って行ったのですか?
篠遠:
20年という年月の間、1つの家族が2世代、3世代にわたって手伝うことが多かったですね。最初の発掘では子供だったのが、何年か経つと大人になって、私と一緒に働くようになっていた。彼らは息子のようなもの。「シノトウだけが、自分たちの文化を教え、育ててくれた」と言ってくれることほど嬉しいことはないですね。
マタタビ:ところで、ハワイキ伝説とは何でしょうか?
篠遠:
ハワイやニュージーランドで「あなたの祖先はどこから来たのか?」と聞くと、「タヒチから」と言うんですよ。サモアの人に同じように聞くと「ここだよ」と言う。つまり自分たちが源だという訳です。これがいわゆる「ハワイキ伝説」で、タコのように、祖先はサモア、トンガからタヒチに来て、タヒチがタコの頭で、そこから8本の足のように各地に散らばった、というものです。
■ナイトの称号に歌とハイビスカス
マタタビ:2000年にフランス領ポリネシア政府からナイト(騎士)の称号を授与されたとお聞きしました。
篠遠:
授賞式でタヒチへ向かう時、普通はタキシードとか、黒い服で正装だから、タヒチなら正装でマロ(ふんどし)になるか、なんて考えましたよ。(笑い)
マタタビ:帰国後、ビショップ博物館に出勤すると、女性スタッフが「騎士、篠遠博士」と、片膝をついてお辞儀しながら迎えてくれたそうですね。
篠遠:
それは、作り話ですよ! (笑い)
マタタビ:黄色のハイビスカスはハワイ州花ですが、新種のハイビスカスに「サー・ヨシヒコ・シノトウ」と博士の名前が冠されたそうですが?
篠遠:
ビショップ博物館の入口近くにありますが、これまでに7000種のハイビスカスの交配に成功したハワイ在住のジル・コリエルさんが作り上げた青と赤の花です。どっちかというと色は紫に近いですね。
マタタビ:タヒチには「タオテ・シノトウ」、マルケサス諸島にも「ウェルカム・シノトウ」という歌まであるとお聞きしましたが・・・
篠遠:
「タオテ」とはドクターという意味で、昔、人気歌手によってレコードになり、パレードで使われるような歌なのです。日本でもソニーからCDになっていますよ。招かれて現地に行ったら、1日中、ラジオで流れていたのには驚きました。
マタタビ:日本語、英語だけでなく、タヒチ語も堪能だそうですね。
篠遠:
タヒチはフランスの植民地だったことで、地元島民は心理的にフランス語を話すのを今でも嫌がるのです。でも、フランス人の役人とかはフランス語を話せない者をバカにする。それじゃ、「タヒチ語を話してみろ!」という気概で勉強しました。
マタタビ:まるで映画や小説以上に波乱と冒険に満ちた人生ですね。
篠遠:
(英語で)I don’t regret. (アイ・ドン・リグレット=わが人生に悔いなし)
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