アンテプリマのクリエイティブ・ディレクター、荻野いづみさん
立体的なフォルムで遊び心があり、キラキラしている光を散りばめたような輝きが特長のワイヤーバッグの生みの親、アンテプリマのクリエイティブ・ディレクター、荻野いづみさん。「大人の女性の遊び心をより深く追求する」というコンセプトに興味を引かれていましたが、ハワイに来られると聞き、是非、お会いしてみたいと考え、実現したインタビュー。世界を飛び回る貴重な時間を割いていただき、日本でも大人気のワイヤーバッグ誕生秘話について、お伺いしました。そこから浮かび上がってきたものは、パワフルで周りに元気を与えるオーラのような輝きでした。
呉服屋を営んでいた両親の影響で、日本の伝統的な装いに触れながら育つ。20代の頃、結婚を機に成城大学3年の時に中退し、渡米。その後、香港でニット製品の縫製工場などを経営している正明氏と29歳の時に出会い、再婚。プラダでのキャリアを経て、クリエイティブ・ディレクターとして、1993年に「デビュー前」を意味するバッグとシューズのブランド「アンテプリマ」を設立。95年からは活動拠点をイタリア・ミラノに移し、98年に日本人女性として初のミラノコレクションに参加。同年発売を開始した透明な塩化ビニールの中にキラキラと輝くシートなどを挟み込み、熱裁断で細いひもにして編んだ「ワイヤーバッグ」を発表。バッグを取り扱うショップ「ANTEPRIMA/PLASTIQ(アンテプリマ/プラスティーク」も展開。1954年東京生まれ。53歳。イタリア・ミラノ在住。
ウエブサイト:http://anteprima.com

デザイナーとしての原点
マタタビ:どうしてデザイナーの道へ?

荻野:
私はプラダでディテールのオペレーション、いわゆるプラダのお店をドンドン出店していく仕事が、この業界に入るきっかけだったんです。ハワイのプラダも私たちがオープンしましたし。20年ぐらい前かな、ハワイへ指導にも来ましたよ。当時、荻野がプラダの極東担当の社長をしていまして、私はPRから販売、買い付けなど、デベロップのすべてに携わっていました。その後、日本法人を経て、アンテプリマを立ち上げたんです。

マタタビ:荻野さんはファッションやデザインだけでなく、ライフスタイル、アート、文化などにも精通されていますね?

荻野:
ヨーロッパにいると、モダンアートを推奨しているのはデザイナーたちですから。どうしてもプラダにしても、グッチにしても接する機会が多いので、そういうことを学ぶのが当たり前という環境の中にいるので、自然と学んできたという感じですね。だから、頭が柔らかくなるというか。アーティストになりたいとは思いますが、私たちは商業ベース。アーティストならスケジュールも関係ないし、1年に1枚の絵を描くだけでもいいだろうけれど、でも私たちはスケジュールやお金など、いろんな制約がある中から創造していくので、ちょっと違いますね。でも、物づくりという意味では共通点があるのかな。

マタタビ:荻野氏との出会いが非常に大きな人生のターニングポイントだと思いますが、それ以前は?

荻野:
主婦でした。ただ、普通の主婦と違ったのは前の主人が貿易会社をやっていたので渡米し、アメリカ的な主婦というか、エンターテイメントを楽しむというような主婦ですね。その後、やはりプラダで働くことが大きなきっかけですね。プラダの初期でデザイナーさえいない時期からの付き合いですから。もう24年になるのかな。(創業者マリオの孫娘である)ミウッチャ・プラダと境遇が似ているんです。ミウッチャも30歳まで何にもしてなくて、おじいさまが亡くなって、お母さまを手伝ったことから始まったんですよ。

当時はセレクトショップみたいなお店だったんです。そこで靴とバッグの工場を持っているご主人と知り合い、「バッグを作ってみたい」というのが彼らの始まりなんです。今でこそ50人くらいデザイナーがいるそうですが、当時はゼロだったんです。だから、境遇がすごく私に似ている。主人は小売業を持っていなかったのと、私はプラダということで、一緒にやろうということになったんですね。で、自分でデザインを始めたのが15年前でした。

主人に出会っていなかったら今の私はない
マタタビ:ご主人との出会いは?

荻野:
主人が43歳の時に出会い、5年後に結ばれました。偶然、私の息子と彼の娘もアメリカンスクールに通っていて、別に学校の父兄会で知り合った訳じゃないですけど(笑い)、子供の教育方針とか、環境が似ていたということがあるかもしれませんね。

マタタビ:ご結婚されて、何が一番変わりましたか?

荻野:
出会っていなかったら、今の私はないと思いますね。彼も工場だけやっていたと思うし。よく言うんですけど、会社で私はブラックシープみたいなものなんです。「真面目な軍団に不良が来た」って。

マタタビ:デザイナーとしての喜びは?

荻野:
クリエーションするというのは、何かひとりでコツコツ作るのではなく、プレタポルテというのはオーケストラの指揮者のようなもの。物だけ見ているのではなく、人とのコミュニケーションとか、みんなで作り上げていく喜び。全員の調和というか、そういう喜びですね。

アンテプリマとはデビュー前
マタタビ:「デビュー前」を意味する「アンテプリマ」というネーミングは?

荻野:
私はコンプレックスを持ち続けてデザイナーになったので、デビューに年齢は関係ないという意味合いを持って付けました。実際、デビューが35歳くらいと遅かったので。「いづみ」というのはどうだ、という話もあったのですが、15年くらい前だから、そんな名前を付けたら誰も買ってくれないから、ありきたりで嫌だ、ということになりました(笑い)。

マタタビ:アンテプリマのコンセプトは「Simple & Sophisticated…yet Sexy」だそうですね?

荻野:
シンプルは理解してもらえると思いますが、Sophisticated(洗練された)というのはアーティスティックであるとか、そういう部分も入るし、でもちょっとセクシーなという意味ですね。

マタタビ:日本語的には「大人の女性の遊び心をより深く追求する」という趣旨ですか?

荻野:
そうね、私はいろんな可能性を持っているほうが良いと思うのね。五感に刺激されると良いというじゃないですか? 女性の持っている一部分だけでなく、すべてが輝きだすような、という思いですね。

マタタビ:幅広い女性の支持を集めている人気をどう思われますか?

荻野:
幸い、今の時代にマッチでき、そういう遊び心を持った女性が増えてきているからではないかなと思うのですが・・・

マタタビ:95年からは活動拠点をミラノに移されましたが?

荻野:
物作りするには素材ですとか、パターンとか、バッグはやはりイタリアからということで。あまり怖がりでもないんです。でも、今はすべての国で居住日数に満たない状態。日本でも非居住なので住民票は出ないし、イタリアでも年間150日以下だし、香港でもそういう状態なので、住民税をどの国にも払ってない状態なんです(笑い)。一番日数的にいるのはイタリアですが、ただミラノではなくて、バッグ工場がフィレンツェ、シューズはピサにあり、ベネチアの隣のメストレにもあるので、行ったり来たり。毎週、どこかに行ってますね。ワイヤーバッグは香港中心で毎月会議があるし、年間の飛行機に乗る回数は110回くらい、日本とも年間14回くらい行ったり来たりしていますね。今回はイタリアからハワイまで24時間かかりました。

マタタビ:98年に日本人女性として初めてミラノコレクションに正式参加されましたね。

荻野:
どうしたんでしょうね? 「じゃ、やっちゃおうか」という感じでした。でも、振り返ってみれば、よくやったなと思いますよ。何も知らないのにね。継続は力なりで。10年経って、やっとデビューしているという感じですね。

マタタビ:同じ年に販売開始した「ワイヤーバッグ」のアイデアは?

荻野:
主人の会社がニットをやっていたので、何か編むバッグを作ろうということで、素材展を回っていたんです。その時に、メガネ用ストラップの素材を見つけたんですね。それで買って、編んでみたんです。いろんなものを編んでみた中の一つが、これだったんです。

マタタビ:ワイヤーバッグは光を散りばめたような輝きで、カラーも多彩ですね。

荻野:
でも、たくさん失敗もありましたよ。レザーだとエスニックになりすぎて。これなら未来的なマテリアルが手で編まれている、というコントラストが良いんじゃないか、となりました。

マタタビ:実用性とデザイン性を兼ね備えている。小さくたたんでも型崩れしない。この素材以外に、プラスティック・ビーズを用いたタイプも評判が良いようですが?

荻野:
5年ぐらい前にハワイで買った麻ヒモと貝で編んだリストバンドのようなものがヒントなんです。ハワイでよく売っているでしょう。あれをバッグにしたんです。ビーズは光るので、対照的な素材が良くてね。麻以外にも、毛皮だとか、いろいろ試しましたよ。だから、どこに行ってもしょっちゅう、キョロキョロしているんですよ。

マタタビ:これまでに一番ご苦労されたことは?

荻野:
いっぱいありすぎて(笑い)。あの、やっぱりイタリアですよね。工場だとロットが大きいわけですね。300以下だと受け付けないとか。大きな会社と同じようにしたいと思うと、ロットを持って行かないといけないんですね。最初に苦労したことですが、今も大変ですね。


日本でカフェをやってみたい
マタタビ:女性用バッグやアパレル、シューズが主力ラインですが?

荻野:
これは今後も変わりませんね。

マタタビ:新規に展開する予定や計画は?

荻野:
子供服やベビーもやりたいなと思うし、ゴルフ系もやりたし。アクセサリーや傘はやっているし、着物、ゆかたは有望。たとえば、ウサギの小さいものを集めて花柄にするとか、トラディショナルを守りながら、どこかでおバカをやるみたいな。まさに遊び心かな。

マタタビ:日本各地や海外にも展開されていますが、今後は?

荻野:
私がやりたいのは、カフェとかやってみたいですね。日本で。イタリアって100mおきにカフェがあるの。オシャレでね。

常に誰かにプラスの影響を与えたい
マタタビ:米国初ブティックがロイヤル・ハワイアン・センターにオープンし、2008年4月にはアラモアナ店も新規開店の予定ですね。

荻野:
ラスベガスとか、ワイヤーバッグって、暖かいところに合うんじゃないかと思うの。マイアミにも行ってみたいですね。

マタタビ:ハワイへの思い、印象、過去の思い出などをお教えください。

荻野:
初めて来たのは30年ぐらい前。最初の結婚の頃は、アメリカと仕事していたので、よく来ていましたね。ほとんどの島に行ってるし、数え切れないくらいかな。昔は正直いうと、ハワイは嫌いだったの。でも、今回、ハワイはやっぱりいいかな、と思ったのは、この気候。昔は突っ張っていたので、今はそれが取れて、ハワイが好きになったという気がしますね。ハワイに来て、花柄のフラバッグというのを作ったんですよ。お陰さまで人気があるんですね。今回、ラナイ島に行って、自然がとても良かったですね。

マタタビ:荻野さんご自身の将来の夢や目標は?

荻野:
あのね、50歳すぎると生きるのが、みんな辛そうなの。周りや友達を見ていると。みんな私と会うと「元気が出る」というの。だから、自分が元気に頑張っていることを、誰かが見ていて、頑張ろうとしてくれる。そういうのって、自分の目標というか、今後も続けていきたいな、と思っています。常に誰かにプラスの影響をしていると思いたいのが自負なんです。毎日何でもいいから、一生懸命にやり、続けることが絶対に意味があると思って。でも、今後は少しずつ東京での生活にシフトしたいとも思っています。だから、六本木のミッドタウンに事務所を構えたんです。まだ2、3年はかかりそうですけどね。
 
編集後記
「ハワイに来る直前まで、ダウンしていた。でも、ハワイに来て、2キロくらい太ったの」。インタビュー前まで、ラナイ島でゴルフ三昧の生活を楽しまれたそうです。実は東京・成城学園の高校生のころ、ゴルフ部で全日本ジュニアとか、関東女子にも出場。今でも88でラウンドという腕前。今は、日本にいる2歳のお孫さんと毎日、ブログで交換日記をするのが楽しみ・・・  次々に飛び出してくるアグレッシブでパワフルな話の内容に、圧倒されました。この姿勢に、さすが厳しい業界の最前線で活躍されている秘訣を見た思いがします。今後のご活躍が非常に楽しみな荻野さんから当分、目が離せそうにありません。(2007年12月)