ワイキキで人気のイタリアンレストランといえば、必ず「アランチーノ」という名前が挙がってくる。味は日本人好みで、料金もリーズナブル。その総帥でアランチーノ・レストラン・グループのオーナーが稲村一郎さん。ハワイ移住の成功者といわれることについて、「果たして成功しているかどうか、あまり自信はないんだけど・・・」と謙遜する。ただ、「私の例を成功と見てもらえるのであれば、そこに至った経緯をお話しましょう」ということでインタビュー。ハワイでビジネス立ち上げを夢見る方々への貴重なメッセージが盛りだくさん。実体験だけに、真に迫ってくる言葉の重みがそこにある。
稲村 一郎(いなむら・いちろう)
 明治大学法学部を卒業後、ナマの英語に触れるべくシカゴにあるトライトン・カレッジに留学。帰国し、父親の後を継ぐべく、一緒に医療系の貿易会社の経営に携わる。機を見て会社を売り、1987年に夢だったハワイ移住を実現。今では元祖、行列ができるレストランで知られるアランチーノ・ビーチウォーク店とワイキキで人気ナンバー1のイタリアン 「アランチーノ・ディ・マーレ」のトップ経営者。妻と娘の3人家族。一緒に移住を果たした父親は8年前に他界、自宅があるオアフ島の高級住宅地ハワイカイで近くに母も住む。1951年、東京生まれ、56歳。ウエブサイト: http://arancino.com
 原点作りのアメリカ留学
マタタビ:稲村さんは、大学を卒業後、1973年に当時22歳で生きた英 語に触れるためシカゴへ飛び立ったそうですね。
稲村:
父は小さな20人ほどの貿易会社をしていたのですが、将来、後を継ぐのに英語が達者じゃないといけなかったんですね。大学を卒業し英語の読み書きはできましたが、やっぱり生きた英語は全然できなかったんです。だからアメリカで英語を勉強し、準備を整えてから就職と考えていました。
マタタビ:留学地をシカゴに決めた理由は?
稲村:
実は私が選んだんじゃなく、当時、父の会社はシカゴとニューヨークに2つの大きな取引先があったんですね。でも、ニューヨークは日本人が多く、日本人社会に入りがち。目的は英語の勉強だったので、シカゴなら郊外で日本人が一人もいない地域で暮らすということで、ここで3年くらいお世話になったんです。
マタタビ:当時のご苦労は?
稲村:
それは大変でしたよ。今でも忘れないことは当時、東京の羽田からシカゴへは直行便がなく、アンカレッジで乗り換える必要があったんですね。英語ができないので、ブラジル行きに乗っかるんじゃないかと不安になったり、どうやって飛行機を乗り換えたらいいのか、自分なりの英語力で「シカゴ行きの飛行機はどっちですか?」とか、いろいろ考えたんです。そしたら、父が「通路を指差して、シカゴ、ディス ウエイ? って聞けばいいんだ」って言うわけ。英語って学校で習うように、そんなに難しく考えなくていいんだ、とあの一言に勇気づけられました。今でも「日本人に英語できますか?」と尋ねると、「できない!」という人が多いけど、単語ならタイムとマネーとか200くらいは絶対知っているでしょ。それにプリーズをくっ付ければ英語になるんですよ! 「チェック・プリーズ」、「ビア・プリーズ」で通じるんですよ。文法にこだわらず、とりあえず、恥ずかしがらずに話すことが一番大事。実はシカゴに3年、今ではハワイに20年居ますが、私の英語力はシカゴ当時のまま。ハワイでは英語の上達はゼロですよ(笑い)。
マタタビ:留学生活はいかがでした?
稲村:
今の基礎を作ったというか、原点だよね。だって、それ以降、英語は上達していないんだから(笑い)。
マタタビ:帰国後、就職されたお父様の会社でどういう事業を?
稲村:
手術の照明灯だとか、レントゲンだとか、今花形のCTスキャンから、小さいものはメス1本まで、日本の医療器具を輸出する代理店をやっていました。
マタタビ:留学から帰国後、どういう仕事を?
稲村:
当時26歳で、「ターンキー」という仕事なんです。医療器具を海外に輸出する商社ですから、いろんな国の病院を回り、日本の医療器具を世界34か国に売ってい ました。サウジアラビアにも2年いたんですが、いろいろな注文を取り、Eメールもない時代ですから、日本にテレックスを打って、商品がすぐに使えるように完全にセットアップまでする仕事でした。お客様はスイッチを入れるだけで良かったんですね。欧州、中東、アジアが中心で、共産圏や東欧、南米は行かなかったね。ハワイでのビジネスはなかったんですが、米本土に行くと時差の調整でハワイに2泊ほどして東京に帰ったんですね。その時に感じた「こんなところに住めたらいいな!」という望みが原点。今から30年ほど前の話ですけれど・・・
 観光ビザで来たハワイ移住
マタタビ:親子2代でハワイで暮らすのが夢だったそうですが?
稲村:
だから、いつかは父と2人で会社をシステム化し、自分達がいなくても会社をコントロールできるような仕組みを創り出そうと考えていたんです。
マタタビ:それはどうなったのですか?
稲村:
ところが円高の波が押し寄せ、右上がりだった売上げが、平行線、右下がりと徐々に景気が悪くなってきた。輸出が8割くらいを占める会社だったので、商売が先細り。このまま会社を残していてもハワイに住む夢はドンドン遠ざかるばかりと思い、ビジネスに社会的価値があるうちに売り払って、ハワイに来ちゃったんです。チャンスは今だなと思ったのが1987年、ちょうど20年前のこと。両親と妻と小さな娘の5人でハワイの地を踏みました。
マタタビ:会社や不動産などを売却し、一度は遠ざかりかけたハワイ移住への夢を叶えたそうですね?
稲村:
当時で5億円という資金を基にハワイに来たんですが、実は私ね、観光ビザで来ちゃったんですね。家も売り、子供は学校も辞めてね。今から思うと、考えが浅かったんです。アメリカは自由の国だから、「私はアメリカを愛しています」「私はアメリカのためになります」といえば何とかなると考えていたんですね。そうしたら、とんでもない、自由なんてどこにもなかったですね。ビザという問題が出て、実はこのビザを取るのに非常に苦労しました。きっちりと準備をし、ビザを確保し、住まいを決め、家族を呼び寄せるということが大事。さらに専門の弁護士に相談することが必要ですね。
マタタビ:ビザ取得までの経緯は?
稲村:
初めは赤坂とか麻布にあるようなオシャレな焼鳥屋をやろうと思っていたんですね。コンテ ンポラリーな。ひとり客単価7000円から8000円、うまくいけば1万円くらい取れると思っていたわけ。そうしたら、ハワイは10ドルで山ほど食べられる料理が出てくるお店がいっぱいあるわけね。ハワイの人たちは焼き鳥はBBQ(バーベキュー)と同じに考え、家庭の残り物でやるものと思っているのね。そんなもので串に刺さっただけで100ドルも200ドルも払うわけがないですよ。ということを悟って、急遽止めたんです。
マタタビ:その後、どうされたのですか?
稲村: いろいろなアイディアを考えたんですが、ピンとくるものがなくボーっと2年が過ぎました。
マタタビ:
この間、日本とハワイを行ったり来たりですか?
稲村:
そうですよ。だからB1ビザというもので、半年間しかおれなかった。また帰ってくると、夏休みの時なら家族連れでも目立たないのですが、10月とかだとイミグレで「お前ら、何やってんだ」と。「将来、ハワイでビジネスをやるんですが」と言っても、「それならEビザを取ってから来なさい」。でも、来なさいって言われても、もう家が日本にないし、すごい苦労しましたね。いつもホノルル空港のイミグレでは「ハイ、第2ブース」とか言われて別室に連れていかれ、子供は当時5つで小さかったから泣き出す始末。日本の観光客がうらやましかったですよ。こっちはいつも止められていたんだから。
マタタビ:
現在の稲村さんからは想像もできないご苦労だったのですね?
稲村:
そうですね。たまたま僕の場合はラッキーだっただけで、これからハワイに来られる方にはオススメできないね。もう1回やるとすれば、今度はそんなことはしないね(笑い)
 あの時の喜びは今でも忘れられない
マタタビ:結局、ハワイでTAKE5という名前のビールバーをオープンされたそうですね。
稲村:
これで初めてビザを正式に取りました。場所は現在のアランチーノがあるワイキキのビーチウォーク。今、銀座梅林という豚カツ屋さんがある所で1989年にオープン。実はあの辺りの権利を全部買ったのですが、広すぎて自信がなかったので3分割し、一番小さいところでビジネスを始めました。その他は 安定収入が入るので、なるべく多く貸そうと思ったんだけど、テナントがしばらく見つからなくてね・・・ でも、こういうことでようやく投資家ビザというのが取れて、あの時の喜びは今でも忘れられないですよ! 今ではグリーンカードを経て米国市民権を持っていますが、あの喜びといえば、これで合法的にハワイで暮らせるという喜びですよ。3年もかかりましたから。
マタタビ:日本から持参された5億円のうち、投資額は?
稲村:
5億円といっても、税金がかかるから、正味3億7000万円くらい。家を買って、ビジネスに投資したらなくなったですよ。だから、あとは頑張るしかないと。スタートアップの資金があったことがラッキーだったですね。実際、3億もあれば商売なんかしないという人も多いよね?
マタタビ:そこまでしてハワイ移住に憧れたのは?
稲村:
こういうハワイの住みやすい気候に憧れ、当時5歳だった娘の教育や塾だ、補習だ、というのが娘にとって本当に幸せなのかどうか。それより真っ黒になって遊び、勉強するときは勉強する、という生き方が良いと思ったんですね。この2つが大きな理由ですね。
マタタビ:お嬢さんは今どうされているのですか?
稲村:
もう26歳になり、オレゴン大学でビジネスを専攻し、今はロサンゼルスでデザイナーの勉強 をしていますよ。さすが親父(私)の娘だけあって商売が好きなのか? と思ったんですが、でも気が変わったのかデザインの道へ。でも、これは家内の父親がプロのカメラマンだったし、女房はフラワーデザインの先生を女子高でやっていたんですね、ずっと。日本のテレビなんかにも出て。だから、そっちの影響かも。またしばらく娘のサポートをしないといけないです(笑い)。
マタタビ:当時、娘さんとの生活のズレやコミュニケーションの時間がまったく取れないという時期があったそうですね。
稲村:
ハワイ初となる日本の生ビール販売といっても、要は飲み屋の親父でした。すでに店は4〜5年くらい経って軌道にも乗っていましたが、夕方の4時くらいにお店に入り、家に帰るのが夜中の12時ごろ、すれ違いの生活で、話す時間もない。休みの日曜日だけが会話の時間だったのに、学校や生活の話の末に段々と説教になっていたんですね。ということで、娘は「お父さんと話すのが嫌だ」となったわけです。
マタタビ:それでどうされたのですか?
稲村:
コレはいかんと、お店を閉めて、娘との時間を中心においた生活を選びました。娘に情緒教育することの必要性を痛感し、毎日2回、朝晩は娘と一緒に食事するようになって、それで親子の会話ができるようになったんです。
マタタビ:移住後、やっと軌道に乗っていたお店を止めるのは難しい選択では?
稲村:
仕事も大事だけど、娘や家族はもっと大切ですからね。今しかない、と思いましたよ。20年後では取り返しがつかなかったからね。幸い、その間は賃貸業で何とか収入はありましたのでね。
 一生懸命だけでは成功しない
マタタビ:稲村さんの経営に対するお考えは?
稲村:
これは日本から来る人によく言うんだけど、プラマイ(プラスマイナス)ゼロで良いんだと思いますよ。ハワイではプラマイゼロになることさえ難しいですよ。ワイキキの飲食業で10軒中8軒は儲かってないですよ。いわゆるブレークイーブン、損益分岐点に行くだけですよ。これでさえ、相当大変、ましてプラスを出すというのは運もないとね。一生懸命だけでは成功しない、ダメですよ!
マタタビ:その後、1995年にイタリアンレストラン「アランチーノ」をオープンされましたが、どうしてイタリアンだったのですか?
稲村:
私がイタリアンを食べるのが好きだったんですよ。作れないけどね(笑い)。海外34カ国を食べ歩き、当時、年齢も若かったこともあるけどイタリアンが好きだったですね。でも、ハワイには日本人が好むようなイタリアンレストランがなかったですね。アメリカン・イタリアンのような油っぽくヘビーで、さっぱりしたライトな日本人向きの料理を作ろうと日本人シェフを呼んで、立ち上げました。
マタタビ:評判はどうだったのですか?
稲村:
いやー、最初は失敗しましたね。ついつい日本の相場を考えちゃうんですね。焼鳥屋でも1万円くらい払うだろうとかね。でもハワイの実情は違うんですね。でも、イタリアンも一人70ドルまでならOKだろうと思っていたら、とんでもない、お客様が入らなかったですよ。それでコンセプトを変えて、値段もリーズナブルでもっと楽しんでもらえるカジュアルなイタリアンにしようと。そしたら、半年から1年するとお客様に来ていただけるようになりました。
マタタビ:そこから学んだことは?
稲村:
日本だと石の上にも3年とか、コツコツやれば何とかなると思うでしょう? でもワイキキの場合は、昨日来られた人は極端な場合、明日には帰ってしまうわけ。要はじっと待っていればお客様が来てくれるような場所じゃないんですよ! 半年やってダメなら永久にダメですよ。良い店はすぐに来てくれる。だから、70ドルのイタリアンでダメなら、高いのかな? と思い、ガラッと雰囲気もカジュアルに変えた。でも、それでも普通は甘いんですよ。ただ、私の場合はラッキーなことに、それが受けたんですね。
マタタビ:ポイントは何かほかにも?
稲村:
シェフは料理の鉄人、でも僕はお客の鉄人だよ、っていうんですよ。つまり客の立場になって、そういう視点で考えるけど、通信簿でいえば味は「4」でいい。これを5にするには、ものすごい金がかかりますよ。最低でも名シェフには年間50万ドルくらいの給料を払わないといけないし、いろいろ入れたら1ミリオン(約1億円)くらい必要。そうでないと、世界中の名シェフクラスは来ないでしょ。でも彼らを呼ばないと5にはならないわけです。でも、4は実力のあるシェフならなれるんですね。だから、あとは4から5のレストランにするにはサービス面で補う。良い教育、訓練をする。これもお金がかかりますよ。料理のビデオ作り、 マニュアル作りとかね。でも、名シェフを呼ぶのに本来なら必要な1億円を教育に回せば良いわけですよ。それには1000万円で十分な教育ができますよ。でも、料理は3じゃダメです。他所よりも美味しくなきゃね。でも、世界一である必要はない、すなわち4で良いのです。
マタタビ:なるほど!
稲村:
だから、よく腕利きのシェフが独立するけれど、うまくいかないケースがありますね。レストランを持っても成功しないのは、常にお客様の立場になって考えることができる、お客の鉄人にならなければいけない。シェフが美味しい料理を作るのは、ビジネスでは2割くらいの重み。それ以外にやるべきことがたくさんある。結局、サービスに加え、お店のデザインや店内で流れるミュージックや雰囲気なども大事な要素なんですね。それらがすべて揃わないとダメですね。
マタタビ:
ハワイのレストラン経営では?
稲村:
味は欠かすことができませんが、味はハード。さらに重要なのがマネージメントやマーケティング、経営センス、リーダーシップなどのソフトです。ハードとソフトを会社に持たせなければ成功は見えませんね。
マタタビ:ハワイのビジネスで一番重要なことは?
稲村:
タイミングと運だね。僕はたまたまラッキーだっただけで、さきほど言ったことをやったからと言って、成功する保証はどこにもないですね。その時には分からないことだけど、後から考えると私はタイミングと運に恵まれてきたといえるね。運というか、チャンスだね。チャンスは誰にでも周期的に訪れるけど、気が付かない人が多いのでは。実は子供の頃、「プールのあるような家に住みたい」と漫画を見て思っていたんですね。ハワイに来て買った家も当時、プールはなかったけど、聞いたらプールを造るのに5万ドルかかるけど、これなら買える。それより、水道代は大変だろうと思ったら、フィルターで汚れた水を濾過していると知り、さほど水道代はかからないと分かったので、これでチャンスをつかんだね。だから、ビジネスでもチャンスをつかむには、常に夢と希望を持ち続けていることだね。思い続けていると夢が叶うんだね。夢はタダだし、税金もかからない。良い話があるとき、チャンスはつかまないと! チャンスは売ってないし、来たら逃がさないこと。すぐに実行することですね。
マタタビ:そのほかにアドバイスは?
稲村:
従業員を怒ったり、キレたりしても何のメリットもないですね。それで上手くいくなら、みんなそうしますよ! お互いに理解し、納得のできる話し合いでないと。あと、何度も言うけど、常にお客の立場に立って物を考えることが大事ですね。
マタタビ:ビジネスは友達とはしない主義だそうですが?
稲村:
気が合う友達同士ビジネスをするメリットは始めやすいこと。二人三脚だから。でも、良くなっても今度は利益の奪い合いになる。悪い点は、ビジネスは儲かるかダメになるかで、ダメになった場合に仲間割れが必ず起き最悪。何十年来の親友をなくしてしまうことになるでしょう。だから、良くても悪くてもダメになってしまいますね。
マタタビ:アメリカは自由の国といわれながら法的な規制が多いですね。
稲村:
多いですよ、難しいですよ。たとえば、看板一つにしても好き勝手に出せないし、ニオイも出せないでしょ。日本だとウナギ屋はそれでお客様を呼び寄せるのに、ハワイでは高い煙突が必要とか、これも簡単にはできないね。いつも弁護士と相談ですよ。
 夢を持って夢に向かって努力する
マタタビ:今後の事業計画は?
稲村:
アランチーノやアランチーノ・ディ・マーレもまだまだやることがあるけれど、海に近いオーストラリアとかバリなど、日本人女性が多く集まるところにイタリアレストランを何軒かオープンしたいね。また、うちの事業部のブレーンにCOO(最高執行責任者)として非常に優秀な人材を入れたので、近い将来、第一線からリタイアできれば、夫婦共通の趣味であるゴルフで全米50州を制覇するという女房の夢を一緒にかなえてやりたいな。今で私が9州、女房が6州なんです。
マタタビ:将来、ハワイ進出を夢見る日本の方に何かアドバイスを。
稲村:
夢を持って、夢に向かって努力すること。ウチに5年前からずっと応募してきたシェフがいますが、何度も断ってきたのに年賀状やメールを送ってきていた。そしたら、たまたま欠員ができてね。で、連絡してみて今、夢が実現したスタッフがいますよ。これなど、良い例かもしれませんね。
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